嬉しいとか哀しいとか、いっそすべて感じなくなってしまえばいい

いつだったか、あいつはそう言って笑った。
そう、あれは、あいつの誰よりも愛したあのひとが結婚したその夜のことだった。


あいつの愛したあのひと、は、本当に幸せそうで。これからの人生を共に歩むこととなる伴侶と腕を絡めて、これ以上ないほど綺麗に笑っていた。おめでとう、ありがとう、幸せになってね、そんな言葉の応酬の中で下唇をかんでいたのはきっとあいつだけではないのだろう、感動でか悔しさでか解らない涙を流す友人たちを、ただただ宥めるように静かに背中を撫でていたあいつ。泣きたくないわけが無いのだ、自身もあれだけ愛していたひとなのだ。

永遠に誰か他の人のものになってしまうというのに。

―嬉しいとか哀しいとか、いっそすべて感じなくなってしまえばいいのにね。

そんなあいつを見かねて、ぽつりと。泣けばいいと言った俺にあいつはそう告げて、それは綺麗に笑ったのだ。そう、その場の誰よりも美しく。

あの時。

あの時俺は、確かに欲情した。
それまでの人生で恐らく最も愛したであろうその人が、他の誰かに奪われ。それでいて見たこともないほど幸せそうなその様を見せ付けられ。それでも、それでも「いい友人」の皮を脱ぐことが出来ない可哀想で優しいあいつの、その、気丈な瞳に。

薄い茶色の瞳が諦めたように揺らぐその様の、なんと美しかった事か。

たった一人で色々な物をその肩に負って生きていかなくてはいけなくて。いつからか泣く事さえ出来なくなってしまったあの細い肩を、滅茶苦茶に掻き抱いてしまいたい、と。
思考回路の全てを快楽で埋め尽くして、何も考えられなくさせてやりたい、と。

例え一時の逃避だとしても、不謹慎にも、その背中を見ているうちに思った。




人は愛ゆえに強くなれる。
けれど、恋は人に何も齎さない。

これはきっと恋だ。

相手を思いやる余裕も無く、すべてを自分のためだけに奪い去ろうとするなんて利己的でなんて激しい。ただ一時の欲望だからこそ何よりも強く、そして哀しいそれ。

確かにあいつは、俺を特別な存在として見てくれているかもしれない。
だけどきっと、それは親愛に近い。一人きりで生きてきたあいつの唯一に近い友人、それが俺だから。友情と愛情、それらが綯い交ぜになっているのだろう。


愛は恋とは違う。
遺伝子レヴェルで生まれる前から描かれていたかのように確かなもの。
包み込むような穏やかなそれは、燃え上がりすべてを焼き尽くす恋とは決して相容れない。

恋は愛とは違う。
夜空に咲く大輪の花火のように、ただその一瞬の為に生きそして散る。
刹那を共に在りたいと願う、何よりも愚かしく何よりも強い欲望なのだから。



ずっと解らなかった。
初めて会ったあの時、思わずその頬に手を伸ばしてしまった理由が。そして行き場を無くした手を、髪をぐしゃりとかき混ぜる事で誤魔化そうとした自分の感情の機微も。

―できるなら、解りたくなかった。

この思いは決して許容されない異質なもの。自分に全幅の信頼を寄せ、背中を預けてくれている相手に抱くべきものではない。
そう解っているはずなのに、この激情は日増しにその獰猛さを増して。

俺が望むと望まざるとに関わらず、身の裡に燻ったこの思いはいつかきっと牙を剥く。それこそあいつの気持ちなどお構いもせず、ただ、自分の欲望のまま。
それは今日かもしれないし、10年後かもしれない。それでも俺は、この想いを捨てる事もできずに生きていくしかないのだろう。

いつか「死」が俺たちを引き離す、その時まで、ずっと。







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