「あら、久し振りね」

重たく、きつく纏わりつくようなパフュームに眩暈すら覚える。

煌びやかな装飾、零れ落ちるざわめき、交じり合う酒とシガレットの匂い。

これ以上無いほど自信に満ち溢れた笑顔。鮮やかなドレスの下に隠された、豊満な身体を惜しげもなく押し付けて、媚びる。後腐れなく寂しさを紛らわせるには、上等すぎるくらいの女。
深い夜の色のドレスから露になった、華奢で滑らかな肩をやんわりと抱きながら口の端でだけ笑って見せる。恐らくその覇気のない微笑みに、女が一瞬だけ目を見張ったのが視界の端で解った。しかし何事もなかったかのように笑顔を作ると、掴んだ腕を軽く引き、廊下の奥へと歩き出す。
今の自分には、このくらいの距離感がちょうど良い。

かつん、かつんと響くヒールの音色。それと共に歩を進める分だけ、周りの喧騒が遠ざかって行くのがどうしてだか酷く不思議な事のように思えた。



***

「ねぇ」

「何?」

「…人を好きになるって、どんな感じ」

抱き合った後の気だるい空気。女の身体に染み付いたきついパフュームも今は何処、彼女の体臭と混ざり合ってほんの少し花の匂いを残すだけになっている。それでもその香りはやっぱり、苦手だった。

シェードによって光量を最小まで落とされたランプの、小さな炎が時折揺れる。そのたび、まるで共鳴するように部屋に落ちる影もゆらりと揺れる。寝そべったまま男を見上げた女は、逞しい上半身を起こした男の顔に、消せない一筋の影を見て、密かに眉をひそめた。


「…人を好きになったことが、ないの?」


小さな問いかけに、男は緩く、緩く首を振る。長く伸ばした髪がそれに伴って揺れ、微かな軌跡を生み出した。ぱさ、と軽い音を立てて男の背中に散る髪。
場に響くのは、ゆら、ゆら、ランプの中の炎の揺らぐ音だけ。

女は緩慢な動作で身体を起こす。ベッド際に置かれていたミュールを突っかけてベッドを抜けると、サイドテーブルに置いてあったシガレットを手にとる。ランプの炎に近づけたシガレットの先の焦げる匂い。


「解らない。いいなぁ、可愛いなぁって思う子なら何人もいたけど。」

「…。」

「でも、違うんだ。
 何が違うのか解らないけど…」

じり、と煙草の先の焦げる音。小さな焔が、薄暗い部屋で光る。

「泣きたくなるんだ。
 あの人を見ると、どうしようもなく泣きたくなる。」




***


ぐちゃ、ブーツで踏み締めた土は酷くぬかるんでいて、耳障りな音を立てる。身体中から立ち上る臭気に少し吐き気を覚えて、元の色がなんだったのかも解らなくなってしまった袖で顔をぐいと拭った。見れば全身はもう染まっていない所など一つもないほど血に塗れていて、生まれもった髪の色さえも解らない。ただ、両の目だけが、異様なほどにぎらぎらと輝いているのが何となく解った。

さっきまで晴れていたはずの空は何時の間にか雲に覆われていて、辺りはまるで気分に同調するかのようにどんよりとしている。更にそこかしこから立ち上る白い煙が、積み上げられた黒い塊が、否応もなく自分たちのしたことを突きつけた。


「おーい、お前、大丈夫か」

救護班だろうか、声をかけてきた人物を片手を上げて見せる事で制して、彼は一歩もその場所から動こうとはしなかった。声の主は少しだけ逡巡した後、それ以上食い下がろうとはせずに彼に背を向けた。彼の纏う雰囲気に、何か尋常でないものを感じ取ったからだった。




焼き付けろ。
忘れるな。
自分の手の赤さ、握った剣の重み、奪った命の重さを。

償え。
生きろ。
自らのために摘み取った命の分、最後まで精一杯。




「…ねえ、そこのひと。生きてるよねえ?」


そう声が掛かったのは、随分時間が経った後の事だったようだ。
よほど没頭していたのだろう、気がつけば辺りはすっかり薄暗くなり始めている。先ほどまで立ち上っていた白い煙も今は殆ど立ち消えて、ただ、黒々とした骸のみがここが戦場であったことを伝える。


「…立ったまま死ねる程、器用じゃない」

「そっか。なら良いんだ。」

皮肉を意にも介せず、声の主は笑った。言い捨てたきり、自分の横にどかりと座り込む。そして何を言うでもなく、すぐ横に座り、同じ方角をただ見詰めている。
骸のみのころがる、無残な光景を。

ちらり、と横目でその人物を捕らえて見て、一瞬酷く驚いた。自分と同じくらい、もしかしたらそれ以上に、全身を血に染めていたから。



「―どう、焼きついた?」


いったいどれほどの時間が経ったのだろう。唐突に。目線は前に向けたまま、そのひとは明らかにこちらに意識を向けて言葉を紡いだ。それが余りにも的を得た言葉だったので、無意識に身体がひくりと震えるのが解った。


「…何のこと?」

「この光景を忘れない為に、目に焼き付けているんでしょ?
 違う?―お兄さん。」


咄嗟に振り向いた自分を、思いのほか強い視線が射貫く。それは人を治め、人に支えられ、人に愛されることを運命付けられた、全てを併せ持った王者の目だった。
身体中を、さっきとは別の種類の震えが走り抜けていく。それは全く未知の感覚で、けれどどこか甘くて懐かしい、泣きたくなるような、震えだった。


「―あんた、誰」

「…さあ、誰でしょう。名前なんてどうでもいいじゃん。
 それよりどう、一緒に来ない?」


―償いたいんでしょう?
そう言って伸ばされた手を、拒もうとは到底思えなかった。



その手を取ってしまえば最後、もう戻れない気がした。
でも。

触れた指先から広がる奇妙な感覚に、俺は奇妙にも落ちていくのを自覚した。愚かで醜くて、けれど何よりも強く甘やかな、




***

「…あなたは、辛い、恋をしているのね」

何時の間にかすぐ傍に来ていた女の、宥めるように背中に回された腕は、痛いくらいに優しくて。苦手なはずの彼女のパフュームの匂いを、ほんの少しだけ愛せたような気がした。

「…俺は、しあわせだよ?」

微かに、声が震えた。

決して手に入らないのを知っている。
それでもあの人の手を取って、良かったと、思う。

良かったと、思う。







inserted by FC2 system